【真筆】吉田松陰 消息 安政5年11月8日 中村道太郎宛 掛軸 直筆 長州 乃木希典 伊藤博文 山縣有朋 高杉晋作 靖国 楠木正成 幕末 書簡 萩 軍
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【商品】
・掛軸 (表:松陰 直筆書簡・裏:中村道太郎 直筆返書) 1幅
・『吉田松陰 因中の手紙』展覧会 出品票 1枚
・『吉田松陰 獄中の手紙』解説紙 1枚
・中村道太郎 直筆返書 書下し・現代語訳文 1枚
画像7-8枚目は吉田松陰全集の所載部分、9-10枚目は、当時の出品目録であり、参考として画像添付しております。
以下、本書簡に係る内容になります。
吉田松陰全集の関係史料を纏めたものです。
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【吉田松陰】
幕末の勤王家、思想家、教育者。長州出身で、長州藩士杉百合之助の次男。家を継いで山鹿流兵学の師範となる。本名は矩方、通称は寅次郎、別号は二十一回猛士。江戸へ出て、安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山に師事。安政元年に下田で米艦への搭乗を図るが失敗し、投獄後、実家で幽閉される。その際、松下村塾を開塾し、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋など多くの門人を育成した。討幕の立論を展開し、老中間部詮勝の暗殺を計画するも失敗し再び投獄される。安政の大獄で江戸伝馬町にて斬首刑となる。享年29歳。安政6年(1859年)死去。明治22年に正四位を贈られた。
【中村道太郎】
長州藩士。22歳で吉田松陰と交流を始め、共に幕末の激動期を駆け抜けた。彼は来原良蔵と共に松陰の親友として後に重要な藩命を担当し、多くの著名な人物と交流した。久坂玄瑞は兄事した道太郎のすすめで九州に遊学した。元治元年の禁門の変(蛤御門の変)では、参謀として参加するも敗れ、長州藩保守派によって野山獄で処刑された。享年38歳。村田清風が最も期待した明倫館出身の長州藩革新派官僚であり、明治維新まで生きていたらと惜しまれる人物であった。「甲子殉難十一烈士」の一人として知られ、後に正四位が贈られた。
【赤川淡水】
長州藩士。中村道太郎の実弟。松下村塾で吉田松陰の門下生となり、松陰の思想に深く影響を受けた。安政2年には水戸で学び、後に萩・明倫館の舎長を務めた。元治元年の禁門の変で活躍したが、その後捕えられ、32歳で斬首された。「甲子殉難十一烈士」の一人として知られる。
【松島剛蔵】
長州藩士で松陰の妹婿の兄。初め瑞益と呼ばれる。江戸で学んだ後、長崎でオランダ人から航海術を学び、洋学所創立に関与。外洋航海の経験を活かし、文久元年に海軍所で活躍。禁門の変に参加し、40歳で斬首される。「甲子殉難十一烈士」の一人として知られる。松陰とは若い頃からの友人で、松陰の慰霊祭や攘夷血盟にも参加した。
【周布政之助】
長州藩要職。藩校明倫館で教育を受けた後、江戸方右筆や手元役などを務めた。当初は松陰と意見が合い、藩政改革に積極的に関与したが、政治的な対立から後に松陰と疎遠になる。後述の松陰の過激な要撃策を察知した周布は、松陰に対し、最終的に厳しい蟄居処分を行うが、松陰刑死後には遺骸の埋葬を手配するなどの貢献を行っている。文久2年には尊攘運動を推進した。元治元年、禁門の変や第一次長州征伐の責任を取らされ42歳で自刃した。松陰の思想に影響を受けた一人として、その生涯は幕末の動乱を象徴していた。
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【本消息までのあらすじ】
安政元年、吉田松陰と金子重輔は、米国艦隊来航をきっかけとする国家存続の危機が迫る中、世界情勢を学ぶべく、ペリー率いる米国船に乗り込もうとした。しかし、米国艦隊に拒まれ、送り返された後自首、獄に繋がれた。江戸伝馬町に拘束された後、長州萩の野山獄へ投獄される。その後、幽閉処分として杉家の幽室において、人と接することを禁じられるも、家族・親戚に勉強会を開き、これをきっかけに安政3年、萩在住の長州藩士に向けて勉強会を開いた(松陰による松下村塾の開講)。その後、多くの藩士が塾生として松下村塾へ集まった。安政4年、通商条約締結問題や将軍継嗣問題など、幕府の国情が緊迫化し始めた。米国という外圧に屈服し、天皇をないがしろにしたこれらの問題を、松陰は老中間部詮勝にあると考えるようになった。そこで、間部詮勝を処罰しようと考え、老中暗殺を計画、安政5年11月6日、同志17人の血判書を作り上げて、まさに実行に移そうとしていた。まず、松陰は前田孫右衛門に武器借用の願い出を送り、続いて長州藩要職の周布政之助に対し要撃策の許可を請願した。前田は松陰の行動に賛同したが、この状況を察知した周布は間部詮勝暗殺を「妄挙」であると考え、中村道太郎をして思いとどまるよう説得を命じた。周布の命の下、道太郎は松陰の元へ赴き、大晦日まで過激な行動を控えることを一旦約束し、松陰の下を去った。11月8日、松島剛蔵と赤川淡水が松陰を訪れ、道太郎と同様の説得を行った。両者から説得を受けた松陰は、道太郎に対し、本消息を認める。
【読み下し文】
今朝瑞益・淡水枉げられ其の後反復思惟仕り候へども誠に憂念の至りに御座候間、何卒拜顔仕り度く候。夜間事々敷く御座候へども白晝御来光は甚だ嫌疑に候間、今夕か據なくは明夕にても因室御来坊待ち奉り候。私も今朝より病気にて舊因室に歸り保養仕り候なり。
【現代語訳(意訳)】
貴方が来た次の日の朝、松島剛蔵と赤川淡水が僕のところまでお立ち寄りになり、その後、僕は、道太郎と淡水らの伝言の内容を比較して、何度も考え直しましたが、※どうしても周布からの伝言には、疑問を払拭できないところがございますので、どうか今一度お会いして真偽を確認したく存じます。夜間に因室におりますが、昼間にお越しになるのは僕が幽居の身ということもあってあまり都合がよろしくないものですから、今日の夕方か、やむを得ない場合は、明日の夕方にでも因室にてお待ちしております。僕も今朝から病気で因室に帰り保養しているところです。
※ 周布政之助の伝言の使者である松島剛蔵・赤川淡水と中村道太郎の内容に若干の食い違いがあることに気付いた松陰は、周布が単に偽りの文句を並べて決起を止めさせようとしているのではないかと疑念を抱いていた。そこで、もう一度道太郎に会い、周布の真意を確かめようとした。
【その後】
その後も要撃に向けて準備を進める松陰を察した周布政之助は、「松陰の学問が純粋でなく人の心を不安させている。」として、松下村塾を強制閉鎖させ、杉家の四畳半の部屋に厳因(自宅謹慎)処分とし、後に野山獄に投獄させた。
当時江戸に留学中であった高杉晋作・久坂玄瑞らは長州萩にて松陰が要撃策を企てていることを知り、投獄の直前、松陰に対して以下の消息を認めている。
〈高杉晋作ら4名→松陰宛消息、現代語訳〉
「…先生のこの度の間部詮勝要撃策の討議など、御苦心の程誠に感激しています。…天下の成り行きも今日に大いに変わり、諸藩も手出しをしないで黙って見ているような情況は、甚だ嘆きため息をつくにこの上ないほどです。…しかし、そうは申しますのの、幕府の役人が勤王の志士とそれ以外の人々を厳しく弾圧し、諸大名を隠居させるか、或いは貿易が盛んになれば黙って見るわけにはいかない情勢になるかと思われます。まさにこの時にお互いの国のため謹敬の心を尽くして国事に向けて努力すべきであり、それまでは静かに手を胸にあて、(老中間部詮勝など)討ち果たすことを止め、長州藩の存続に害が及ぶことがないよう十分に祈っております。…短くてつまらない手紙ですが、我々同志が真心をこめたところですので、よくよくお考え下さるようお願い申し上げます。…」
上記のように最も信頼し期待をかけていた高杉らから時期尚早として慎重論を唱えられた松陰は落胆し、以下の消息を認めた。
「…桂小五郎(木戸孝允)は、大変仲の良い友達であったが、先日の夜、勤王の話に及ぶことなく残念であった。江戸にいる久坂・中谷・高杉なども皆僕と考えが異なっており、その分かれるところは僕は天皇や藩主に対して真心を尽くすつもりであるが、諸君はただ手柄を立てようとしているのだ((原文)僕は忠義を成す積り、諸友は功業をなす積り)。」
その後、江戸幕府より命を受けて江戸へ移送された松陰は、幕府から詳細に取り調べを受けることとなった。既に自らの計画が幕府に知られていると悟った松陰は、幕吏を前にして老中間部詮勝の要撃策を赤裸々に述べてしまうが、幕吏はそこで初めて松陰の暗殺計画を知ることとなった。評定所において「死罪申し付ける」との申し渡があり、安政6年10月27日、江戸伝馬町にて斬首刑となった。上記のように江戸幕府が行った幕末の一連の政治的弾圧は、後に「安政の大獄」と呼ばれた。
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■松陰は安政6年、ただ一人彼の行動を支持した門弟の入江九一に遺言を残しました。遺言の中で、松陰は自身の友人たちを列挙し、それぞれの特性を記述し、入江にも彼らから学ぶことを勧めました。松陰は「僕は平生、酒に溺れず、色に耽らず、楽しむところは、好書と良友のみである」と述べ、最も古い友人が中村道太郎であり、次に来原良蔵と土屋蕭海だと記しています。さらに「中村は、僕に反対することが最も多いが、反対する者(自分と意見が異なる者)の益は、しばしば同意見の者に優れる」と述べており、中村道太郎は松陰にとって生涯の良友であったことを示しています。なお、中村道太郎は嘉永2年に明倫館で松陰の兵学門下生であったものの、子弟というよりは松陰にとって最大の親友でした。
■全集には本書簡が書かれた経緯や関連情報が詳細に記述されています。本書簡は、松陰が、最後の行動を起こし、その結果として獄に繋がれ、最終的に処刑されるに至るまでの、人生の終焉の時期に書かれたものです。その背景には、松陰の強固な意志と決断が表れており、非常に貴重な資料です。この書簡を通じて、松陰が多くの人間関係を築き、直接の対話を重視し、多数の反対にも屈することなく自己の信念を貫いていたことが確認できます。彼は生涯を通じて孟子を師とし、「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」という言葉を座右の銘としていました。特に、間部詮勝暗殺を画策した場面は、「千万人と雖も吾往かん(良心に恥じることがなければ、どんなに多くの人間にも恐れずに立ち向かうべきである)」という孟子の言葉を体現していたといえます。江戸への移送時には「至誠」と書かれた布切れを袖に貼り、評定所で自らの罪を自白したのも、彼の至誠の表れだったといえるでしょう。
■ 本書簡は、書かれた時期、場所、宛先、目的が明確であり、松陰の生涯とその勇敢な最後の瞬間を伝えるものです。幕末という重要な歴史的時期の直接的な証拠であり、彼の思想や行動、人間関係を通じて、松陰のやむにやまれぬ深い大和魂を感じ取れます。本書簡を手にすることで、明治維新に大きな影響を与えた松陰の遺志を受け継ぎ、彼の歴史的背景をより深く理解することができるのではないでしょうか。
(2024年 7月 7日 17時 13分 追加)
■明確に中村道太郎宛てとされる書簡は、全集(七・八巻)に全部で9通所載されており、この書簡は9番目、つまり最後に交わされた書簡です。そして、初めて交わされた書簡には以下のように記されました。
〈吉田松陰→中村道太郎宛消息 嘉永6年正月某日 現代語訳〉
「『臣下の者は、皇帝の意向や方針に従い、それを庶民に対しても理解させ、従わせていくことを職務とする。もし、国家の利益不利益がどうしても避けられない状況に迫られた場合には、たとえ天子の法に逆らい、群臣の恨みを買い、天子の大きな不善を犯すことになっても、必ず毅然とそれを行い、決して逃げないことである。』
これは、明季の魏敘子が、臣下の者(相臣)のあり方について論じた際の言葉で、僕は好んでこれを暗誦している。…僕が役職者の人となりを観察するに、才能はあるが志がない者、知識は豊富だが胆力のない者がいる。人として優れた者が最も重視するものは、事を成そうとする強い志と、如何なる物事にも屈しない胆力のみである。そのような胆力も志もないのであれば、培ってきた才能や知識など、もはや何の役に立つことはない。執務にあたる者が、本を読んで歴史を学んだとしても、志を高く持ち、胆力を大きくすることに注力しないのであれば、才能や知識は、せいぜい俗世間の人たちから驚かれる程度で終わるのである。物事の本質を知る者には理解されない。古の偉人には、最も重要な局面に至った時は、死をもって自らを全うする者がいた。「死」の一文字は、古来から今に至るまでこれを遠ざけることはできない。魏敘子の言葉…にしても、正にこのことに他ならないのだ。…僕が道太郎に願うところは「書をよく読んで、物事に挑む」、これをもって臨めば、志は自然と高くなり、胆力も大きくなっていくのだ。…」
数少ない書簡の中で、松陰が道太郎に初めて宛てた書簡では、彼の人生観・死生観が示されていました。そして、最後の書簡の場面は、松陰が自ら行動に移し、最初の書簡の意味を具体化していました。
■松陰が処刑された後、中村道太郎・久坂玄瑞などの長州藩士は、松陰の遺志を継いで尊王攘夷の道を進みます。もっとも、禁門の変で敗れ、彼らは倒幕を迎える前に志半ばで亡くなりました。幕府から第一次長州征伐を受けたことで、一時は攘夷運動が衰退しましたが、高杉晋作が起こした長州藩内クーデターにより攘夷派が実権を取り戻すことに成功します。幕府は第二次長州征伐を強行しましたが、晋作と大村益次郎の軍略により長州藩は幕府軍を打ち破り、第二次幕長戦争に勝利しました。長州藩に敗北した幕府の威信は急速に弱まり、大政奉還へとつながり、王政復古、すなわち「明治維新」が実現します。最終的に、松下村塾の生き残りである伊藤博文や山縣有朋などが中心となって長州・薩摩を基盤に明治新政府を樹立し、近代日本の礎を形成していくことになります。